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帝キネとは

 帝国キネマ演芸株式会社(帝キネ)は19205月に大阪で設立された。創業者の山川吉太郎は大阪映画産業の形成に重要な役割を果たした先駆者の一人である。

 映画は大阪で18962月に初めて興行された。19077月には最初の映画常設館の電気館が大阪の中心的繁華街に開場する。山川はその2年後の19097月に映画興行に乗り出す。千日前の寄席・春木亭を改装し三友倶楽部として開場した。三友倶楽部は東京の梅屋庄吉が経営するMパテー社と契約し映画の供給を受けていた。そのMパテーの新派劇映画が大阪で評判となり、山川は興行界で名を馳せる。

 1910年、山川は東京に新設された映画会社福宝堂と契約を結び、福宝堂大阪支店長となる。このとき福宝堂本社営業部にいたのが、その後山川とかかわりを持ち続けることになる小林喜三郎である。1912年、福宝堂がMパテー商会や吉澤商店、横田商会とともに買収され、9月に日本活動写真株式会社(日活)が創設されると、山川は日活大阪支店長に就任する。

 しかしすぐに山川は日活を退社し、1913年の春までに東洋商会を千日前芦辺倶楽部(のちの芦辺劇場)の経営者・山松友次郎らとともに設立する。東洋商会は旧福宝堂がロンドンで購入した英国キネマカラーの東洋特許使用権を譲り受け、カラー映画を東京のキリン館や大阪の楽天地などで興行した。そして19143月、小林喜三郎や山川吉太郎ら旧福宝堂一派は東京に天然色活動写真株式会社(天活)を設立、山川は天活大阪支店長となる。天活はその後、日本市場における日活の独占的地位を切り崩していく。

 1915年9月、山川は新たに山川興行部を起こす。山川興行部は天活が製作した映画を西日本の映画館に供給し興行する事業を請け負う。東日本は小林の小林興行部が請け負った。小林が天活と対立し独立するのに対し、山川は大阪から天活の屋台骨を支え続ける。

 1919年12月、小林が国際活映株式会社(国活)を設立し天活を買収すると、山川は独立を決意する。19201月、芦辺劇場など山川興行部の所有する映画館と旧天活小阪撮影所およびそのスタッフを集めて山川興業商行を設立、その年の5月には北浜の投機家・松井伊助の協力を得て資本金500万円の帝キネを創立した。第一次世界大戦後の日本では小林の国活と山川の帝キネのほかに、芝居から映画に進出した白井松次郎と大谷竹次郎の松竹兄弟の帝国活動写真(のちの松竹キネマ)、東洋汽船会社の浅野総一郎が出資した大正活映株式会社(大活)、さらに1923年にマキノ教育映画製作所(マキノ)や東亜キネマ株式会社(東亜)などが東京や横浜、大阪、京都などに設立された。日本映画の製作本数は急増し、その供給量は初めて外国映画を凌駕する。新会社はそれぞれのやり方で舞台の影響を強く受けた旧劇映画や新派劇映画から脱した新しい日本映画の製作を目指す。また植民地の市場開拓にも積極的で、帝キネもソウルの黄金館や台北の芳乃亭などと契約し、映画や連鎖劇の供給、弁士や技術スタッフの派遣などをおこなった。こうして日活と天活の二大映画会社による市場支配は終わりを迎える。

 帝キネ創業期の俳優陣は旧劇の嵐璃徳一派、新派劇の熊谷武雄一派、大井新太郎一派(客員:山田九州男)、小松正夫一派、久保田清一派、伊村義雄・秋元菊弥一派、桜井武夫・原田好太郎一派、秋山十郎一派などである。もともと関西の芝居小屋で活躍していた役者を天活時代に山川が雇用した人たちが多い。1923年、帝キネは関東市場進出を目的に現代劇映画専門の芦屋撮影所を開所する。同じ年、より進んだ映画劇を目指して帰山教正や伊藤大輔らを中心とする東京撮影所も開所した(国活巣鴨撮影所を借用)。また、小阪撮影所では旧劇の嵐璃徳らが「日本旧劇映画研究部」を設置し、『修善寺物語』(1923年、中川紫朗監督)などの時代劇映画の製作を始め、それらの映画は映画雑誌『キネマ旬報』などで高く評価された。

 帝キネは大阪を中心に西日本で強力な興行地盤を築いた会社である。そのことは株主の構成からも見てとれる。創業期の帝キネ株は約4分の1を山川吉太郎が、残りを310人の株主が所有していた。株主の構成には偏りがあり、大阪は209名と最も多く、そのあと兵庫の25名、広島の22名、和歌山の19名、福岡の10名と続く。東京はわずか2名である。全1万株の98.6%の株を名古屋以西の株主が所有していたのだ。とくに重要な拠点は福岡で、博多の興行者内藤良吉が所長を務める九州出張所が映画や弁士を九州各地および朝鮮や台湾に供給していた。

 一方、帝キネの東日本の供給網は脆弱だった。創業時はトム・D・コクレンが代表を務めるユニヴァーサルフィルム製造会社東京支社(ユニヴァーサル社)と提携し、東日本での帝キネ映画の供給を委託したこともある。しかし日本ではさすがのユニヴァーサル社も契約館獲得に苦戦し、西日本と比べ、東日本での帝キネ映画の供給は極端に少なかった。東京を中心とする東日本での帝キネの存在感の薄さはその結果とも言える。

 帝キネが全国規模の会社に成長するのは大正末期から昭和初期、すなわち関東大震災で東京が壊滅的な打撃を受けてから復興するまでのあいだである。帝キネは大阪経済の隆盛を背景に映画の製作規模を拡大し、契約館を全国に増やす。とくに帝キネは直営館の獲得を重視した。大阪中心部の千日前に芦辺劇場と映画倶楽部、周辺部の九条に高千代座、北陽に老松座、玉造に玉造座、新世界にいろは座を経営するほか、神戸の相生座や京都のキネマ倶楽部、さらには横浜の敷島座や朝日座、岐阜の旭座、広島の泰平館、博多の帝キネ倶楽部などを直営する。帝キネの契約映画館数は日活、松竹に次いで三番目となり、1925年頃までには大阪の芦辺劇場と神戸の相生座、京都のキネマ倶楽部、東京の大勝館での同時封切り興行が当たり前になる。

 供給網を全国に広げるため帝キネが毎週10本以上の映画を量産し始めるのも、この頃である。なかでも『籠の鳥』(1924年、松本英一監督)など流行小唄を題材にした映画は収益性が高く、帝キネの事業拡大に大いに貢献した。東京で名の通った五月信子や鈴木歌子、鈴木澄子、森静子、葛木香一、関操、藤間林太郎、正邦宏、水島亮太郎、横山運平などの俳優、小沢得二や志波西果、細山喜代松、山下秀一、塚越成治などのスタッフが次々入社する。しかし急激な事業の拡大は社内に軋轢を生み、帝キネはいっとき小阪、アシヤ、東邦の三つに分裂してしまう。

 帝キネにとってサウンド映画製作への挑戦は事業を全国規模で展開するための戦略の一つだったと言える。1926年、大阪の長瀬に広大な土地を手に入れ、2年の歳月をかけて最先端のスタジオ2棟を建築する。新スタジオにはアメリカから取り寄せた最新のサウンド用カメラや編集機が設置された。しかし、その膨大な設備投資が帝キネの財政を圧迫し、帝キネは資金難に陥る。

 1929年4月、社長の山川は松竹との提携を決める。提携後の帝キネは「新興帝キネ」と呼ばれた。新興帝キネの社長には松竹の白井松次郎が就任し、山川は専務となる。帝キネは松竹から立花良介などの経営陣や鈴木重吉などのスタッフを迎え入れ、それまでの数十倍もの予算で映画を作るようになる。帝キネの映画供給のルートは大きく変わり、東京の封切り館は浅草常盤座、大阪は道頓堀弁天座に変更される。両方とも松竹系の映画館である。

 新興帝キネ時代の代表作は興行的にも批評的にも成功した『何が彼女をそうさせたか』(1930年、鈴木重吉監督)であろう。当時日本のサウンド化を牽引していた大阪松竹座やイーストフォン研究所、大森スタジオが協力し、最終巻のみとはいえ音声がアフターレコーディングされた。長瀬撮影所の所長だった立花はこの映画と数本の帝キネ映画を自身の経営する供給会社一立商店の社員・袋一平に命じロシアで上映させる。このとき彼がロシアから持ち帰るのがセルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『全線』(1929年)である。

 1930年9月、日本のサウンド映画製作を推し進めると期待されていた長瀬撮影所は焼失する(不審火の疑いもあった)。帝キネの製作陣はやむなく大阪を離れ、京都の太秦撮影所に移る。太秦撮影所は立花が時代劇スター阪東妻三郎の独立プロダクションのために開所し、ユニヴァーサル社との提携事業にも使われた撮影所である。帝キネはこの太秦でもサウンド映画の製作に挑む。日立製作所などと提携し、キノラ式トーキー装置で浪曲映画『赤垣源蔵』(1931年、渡辺新太郎監督)を製作している。だが、ふたたび撮影所が火事に見舞われ、帝キネの借金はさらにかさむ。

 1931年8月、社長の白井は東京に新興キネマを設立、その新会社に帝キネの全営業権を委託することを決める。こうして帝キネは借金整理のための会社となる。創業者の山川は帝キネに残り1933年に退社、1935年に帝キネは消滅する。その後、大阪に帝キネほど大きな映画会社はあらわれていない。

帝国キネマ演芸の営業報告書と定款一覧

1            大正95       大正97       大正9年上半季    営業報告書

2            大正98       大正101     大正9年下半季    営業報告書

3            大正102     大正107     大正10年上半期  営業報告書

4            大正108     大正111     大正10年下半期  営業報告書

5            大正112     大正117     大正11年上半期  営業報告書

6            大正118     大正121     大正11年下半期  営業報告書

7            大正122     大正127     大正12年上半期  営業報告書

8            大正128     大正131     大正12年下半期  営業報告書

9            大正132     大正137     大正13年上半期  営業報告書

10          大正138     大正141     大正13年下半期  営業報告書

11          大正142     大正147     大正14年上半期  営業報告書

12          大正148     大正151     大正14年下半期  営業報告書

13          大正152     大正157     大正15年上半期  営業報告書

14          大正158     昭和21       大正15・昭和元年下半期  営業報告書

15          昭和22       昭和27       昭和2年上半期    営業報告書

16          昭和28       昭和31       昭和2年下半期    営業報告書

17          昭和32       昭和37       昭和3年上半期    営業報告書

18          昭和38       昭和41       昭和3年下半期    営業報告書

19          昭和42       昭和47       昭和4年上半期    営業報告書

20          昭和48       昭和51       昭和4年下半期    営業報告書

21          昭和52       昭和57       昭和5年上半期    営業報告書

22          昭和58       昭和61       昭和5年下半期    営業報告書

23          昭和62       昭和67       昭和6年上半期    営業報告書

24          昭和68       昭和71       昭和6年下半期    営業報告書

25          昭和72       昭和77       昭和7年上半期    営業報告書

26          昭和78       昭和81       昭和7年下半期    営業報告書

27          昭和82       昭和87       昭和8年上半期    営業報告書

28          昭和88       昭和91       昭和8年下半期    営業報告書

29          昭和92       昭和97       昭和9年上半期    営業報告書

30          昭和98       昭和101     昭和9年下半期    営業報告書

31          定款1   

32          定款2   

本サイトに掲載した帝国キネマ演芸の営業報告書と定款の画像はJ-DAC「企業史料統合データベース」(丸善雄松堂)https://j-dac.jp/bao を使用しています。

西暦 和暦 帝キネ関連事項 映画一般事項
1896 明治29   最初の映画上映、神戸神港倶楽部でキネトスコープ上映
1897 明治30   最初の映画興行、大阪南地演舞場でシネマトグラフ興行
1898 明治31   最初の映画撮影、東京小西写真機店が『化け地蔵』などを撮影
1903 明治36   最初の映画常設館、浅草電気館開場
1907 明治40   大阪で最初の映画常設館、千日前電気館開場、以後常設館の開場が相次ぐ
      仏パテ・フレール社アジア進出、シンガポールに代理店開業、以後香港、上海、マニラなどに開業
      吉澤商店が立島清を外国映画係としてロンドンに派遣
1908 明治41   最初の撮影所、吉澤が東京目黒行人坂撮影所開所、以後東京や京都などに開所
1909 明治42 山川吉太郎が千日前の寄席・春木亭を改装し三友倶楽部を開場、Mパテー社(梅屋庄吉経営)の特約館  
1910 明治43 合資会社福宝堂設立、山川は福宝堂大阪支店長、小林喜三郎は福宝堂本社営業部長 吉澤商店がロンドンの日英博覧会に協力、福宝堂が鈴木陽を外国映画係としてロンドンに派遣
1912 明治45 福宝堂、英国キネマカラーの東洋特許使用権を1万ポンドで購入  
1912 大正元 日本活動写真株式会社(日活)設立、山川は日活大阪支店長、小林喜三郎は日活本社営業部に就任(両者とも12月に退社)  
1913 大正2 小林や山川ら旧福宝堂一派が東洋商会設立、福宝堂の英国キネマカラー東洋特許使用権譲受 日活が外国映画係の小野丑蔵をロンドン支店に派遣
    英国のナチュラル・カラー・キネマトグラフ社が日本の東洋商会に装置と技師を送る  
    東洋商会がカラー映画を浅草キリン館で興行  
    英国のナチュラル・カラー・キネマトグラフ社が大量のキネマカラー装置を日本の皆川広重(のちの天活取締役)に発送  
1914 大正3 東洋商会を改組し天然色活動写真株式会社(天活)設立、山川と小林は天活取締役、ロンドン出張所開設 ユニヴァーサル社、アジアで最初の支社をマニラに設立、以後アジア各地に設立
1915 大正4 山川が大阪に山川興行部、小林が東京に小林興行部を起こし、西と東で天活映画の請負興行を始める ユニヴァーサル社、シンガポールの播磨勝太郎とともにユニヴァーサル播磨商会設立(大阪)
1916 大正5 天活が大阪に小阪撮影所を開所 ユニヴァーサルフィルム製造会社東京支社設立、代表トム・D・コクレン
    山川興行部が楽天地やソウルの黄金館などで連鎖劇『須磨の仇浪』を上演し好評を博す  
1917 大正6 山川興行部が天活と歩合契約  
1919 大正8   小林、『イントレランス』を輸入興行、山川も歩合5割で供給協力
      国際活映株式会社(国活)設立、小林は常務取締役
1920 大正9 山川が山川興行部の所有する劇場と小阪撮影所をもとに山川興業商行設立 国活、天活を買収
    山川興業商行を改組し帝国キネマ演芸株式会社(帝キネ)設立、社長松井伊助、専務山川 松竹キネマ合名社設立
    帝キネが九州出張所を門司に設置、所長内藤良吉 大正活動写真株式会社(大活)設立
    神戸相生座の株取得 松竹蒲田撮影所開所
    ユニヴァーサル社日本支社と提携、ユニヴァーサル社が東日本で帝キネ映画を供給 帝国活動写真株式会社(のちの松竹キネマ)設立
1921 大正10 帝キネ東京仮出張所設置 松竹キネマ株式会社(松竹)設立
    帝キネ直営で福岡博多劇場開場  
1922 大正11 帝キネがソウルの朝鮮活動写真株式会社直営中央館と供給契約 大活が松竹と提携 →1927年5月解散
    市川百々之助が帝キネに入社  
1923 大正12 山川が帝キネ社長に就任 大阪松竹座開場
    現代劇映画専門の帝キネ芦屋撮影所開所(所長石井虎松)、関東市場進出を目指す フォックス極東会社設立
    帝キネが台北の芳乃亭と供給契約 パラマウント映画日本支社設立、代表トム・D・コクレン
    帝キネ東京撮影所(巣鴨)第一回作品『父よいづこへ』(監督帰山教正、脚本伊藤大輔、撮影顧問栗原トーマス)試写 関東大震災、経済の中心が一時関西に移る
1924 大正13 小唄映画『籠の鳥』が大ヒット、帝キネ急成長、立石駒吉が取締役に就任  
    梅蘭芳が小阪撮影所で『紅録伝』を撮影  
1925 大正14 帝キネの内紛激化 ファーストナショナル映画会社(日本)設立、代表ホーレス・T・クラーク
    帝キネ小阪撮影所を閉鎖、帝キネが小阪(山川)、アシヤ(石井)、東邦(立石駒吉)の3つに分裂  
    東邦が解散し、小阪とアシヤが合流(新帝キネ)  
1926 大正15 東大阪の長瀬に撮影所建設のための土地を購入 メトロ・ゴールドウィン日本支社設立
    北陽老松座を買収  
    新帝キネ記念作品『意恨の駒下駄』(監督山下秀一、撮影谷口禎)公開 阪妻プロ、一立商店(立花良介)、ユニヴァーサル社が阪妻立花ユニヴァーサル連合映画(BTU)設立 →1927年5月契約解除
1927 昭和2   鈴木重吉、BTUで『青蛾』製作
      最初の国産トーキー『黎明』(監督小山内薫)が帝国ホテル演芸場で試写
1928 昭和3 門司出張所を閉じ、福岡中洲に帝キネ九州支社設立 松竹の城戸四郎、欧米視察より帰国
    帝キネ長瀬撮影所が11月に竣工し、12月に移転完了、小阪撮影所は閉所 松竹合名社(東京)を株式化し松竹興業株式会社設立(社長は大谷竹次郎)
1929 昭和4 帝キネが松竹と提携(新興帝キネ)、社長白井松次郎、専務山川、帝キネ東京支社を閉鎖し松竹に委託 松竹合名社(大阪)を株式化し松竹土地建物興業株式会社設立(社長は白井松次郎)
    松竹が欧州視察から帰国した鈴木重吉を帝キネに配属 松竹座チェーン、発声映画に進出
    帝キネ松竹提携第一回作品『恋のジャズ』(監督鈴木重吉、撮影塚越成治)公開 セコンド館にもトーキー進出
    『何が彼女をそうさせたか』(監督鈴木重吉、撮影塚越成治)製作、大阪松竹座やイーストフォン研究所と提携、最終巻は大森スタジオでアフレコ 松竹、直営館を減らし歩合館と特約館の獲得に腐心
    帝キネが直営館の獲得に腐心  
    芦屋撮影所の石井虎松との契約終了、帝キネの実権が白井の手に  
    帝キネ東京支社再開準備  
1930 昭和5 山川に代わり立花良介(松竹から出向)が専務、内藤が長瀬撮影所所長に就任  
    帝キネ東京支社再開  
    松竹座チェーンで『何が彼女をそうさせたか』公開、大ヒット  
    豊田四郎が松竹から帝キネに、帝キネ文芸映画路線へ  
    帝キネが築地小劇場と提携  
    一立商店宣伝部長の袋一平が『何が彼女をそうさせたか』など帝キネ映画を持ってロシアへ、ロシアでは『全線』などを帝キネ名義で輸入  
    帝キネ本社が松竹土地建物興業本社内に移転  
    文芸映画路線を改め大衆路線に  
    帝キネトーキー部設置、サウンド映画製作用の新式ミッチェル・カメラとムヴィオラ編集機を購入  
    帝キネ長瀬撮影所、全焼  
    イーストフォン式パートトーキー『子守唄』(監督鈴木重吉、撮影三木茂、主演関屋敏子)公開、好評  
    帝キネ太秦撮影所(旧阪妻プロ太秦撮影所)に移転  
    松本田三郎らが独立し、大阪難波新地にアシヤ映画設立、瓢箪山撮影所開所  
    帝キネ太秦撮影所にトーキーステージを新設  
    帝キネ、太秦撮影所でまたも出火  
1931 昭和6 浪曲トーキー『赤垣源蔵』(監督渡辺新太郎、撮影三木茂、音響指導鈴木重吉、口演吉田日の丸)公開、キノラ式トーキー(米国ウェスタン方式のサウンド装置を日立製作所が開発、キノラのキはキネマ、ノラはサウンドのフランス語) 松竹、東西の興業会社を合併し松竹興業株式会社設立、本社は東京に
    帝キネが営業のすべてを新設の新興キネマに委託(9月1日より業務執行)、第一回配給は阪妻プロ『風雲長門城』 松竹がパラマウント映画日本支社と提携しSP興行社結成、日本のサウンド映画化が加速
    内藤が帝キネを退社  
1933 昭和8 立花、山川らが帝キネを退社  
1935 昭和10 帝キネ、消滅  

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